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snow contemporary
『映像素材としてのドローイング』 2026、紙に色鉛筆等 ©Yosuke Amemiya
雨宮庸介 個展「生きているのに走馬灯」
会期:2026年9月19日(土) – 11月7日(土) 13:00 – 19:00
*日・月・火・祝日は休廊
会場:SNOW Contemporary / 東京都港区西麻布2-13-12 早野ビル404
オープニングレセプション:2026年9月19日(土)17:00 – 19:00

SNOW Contemporaryでは2026年9月19日(土)から11月7日(土)まで、雨宮庸介「生きているのに走馬灯」を開催いたします。

雨宮庸介(あめみやようすけ)は、1975年茨城県生まれ。2013年 アムステルダムのサンドベルグインステテュートにて修士課程を修了。その後ベルリンを拠点に約10年間活動し、2022年に帰国。現在は山梨県と東京を中心に活動しています。
雨宮は、ドローイング、彫刻、パフォーマンス、VRなど多岐にわたるメディウムを用いて作品を制作しています。リンゴや石、あるいは人間など、ありふれたモチーフを扱いながら、超絶技巧や独自の話法などにより、鑑賞者の認識を揺さぶり、いつのまにか異なる位相へと身を触れさせるような感覚を生み出します。

雨宮は、1999年の初個展以降、国内ではSNOW Contemporaryを中心に継続的に個展を開催するほか、2021年には『Reborn-Art Festival 2021-22』(宮城県)、『りんご宇宙―Apple Cycle/Cosmic Seed』(弘前れんが倉庫美術館)に参加。2023年には茨城県立近代美術館『土とともに 美術にみる〈農〉の世界-ミレー、ゴッホ、浅井忠から現代のアーティストまで-』など、国内の美術館での展覧会にも参加しました。

2024年には『神戸六甲ミーツ・アート2024 beyond』(六甲山、兵庫)、『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2024』(越後妻有地域、新潟)などの芸術祭に参加。同年には個展『まだ溶けていないほうの山梨県美』(山梨県立美術館、山梨)を開催し、2024年から2025年にかけては個展『雨宮庸介展|まだ溶けてないほうのワタリウム美術館』(ワタリウム美術館、東京)を開催するなど、活動を広げました。

また、これまでベルリン、アムステルダム、レイキャヴィークなど海外でも作品を発表しており、国内外の美術館や芸術祭、展覧会、パフォーマンスなど幅広い場で活動を続けています。
SNOW Contemporaryで6回目の個展となる本展では、作家の実体験や世界に対する気づき、地域に伝わる伝承などが交錯する短いストーリーを、映像とドローイングによって展開します。

雨宮はこれまでにも、フィールドワークを通じて、土地やその土地にまつわる記憶、伝承と向き合いながらサイトスペシフィックな作品を制作してきました。本展では、作家が2014年から少しずつ書き留めてきたテキスト群を起点とし、海外から日本まで、さまざまな土地での体験や、日々ふと浮かぶ思考、世界の真理についての考察などが、ひとつひとつの物語として立ち現れます。現実の体験と、記憶や想像、白昼夢のように浮かんでは消えていく思考。それらが重なり合うことで、ひとつの夢か現世(うつしよ)ともつかない世界が形づくられていきます。

本展の中心となる映像では、作家自身がストーリーの語りにのせて、ドローイングを並べたり重ねたりする行為が映し出されます。それはまさに、思考が生まれ、つながり、浮かんでは消えていく作家の思考そのものでもあります。さらに、現実空間である展示室には、映像に使用されたドローイングが展示されることによって、テキスト、映像、ドローイングが互いに呼応する空間が生み出されます。

現実の出来事なのか、記憶なのか、あるいは白昼夢なのか。

2014年から書き留められてきた言葉と、そこから生みだされる映像、ドローイングを通して、雨宮の軌跡ともいえる「走馬灯」が浮かび上がり、そして鑑賞者を現実と夢の間、白昼夢の世界へと誘います。

本展では、同名のテキスト群を収録した小冊子も刊行予定です。物語と現実、夢と記憶のあわいを漂う本展を、ぜひご高覧ください。



*アーティスト・ステートメント / 雨宮 庸介

今回の展示では、Web上で2014年から数年に一度書き足していた「生きているのに走馬灯」というものから、25個ぐらいのエピソードを抜粋したものです。読み上げたテキストと紙に描かれたイメージとをあわせた「生きているのに走馬灯」のシングルチャンネルビデオ版、といった展覧会になる予定です。以下は2014年に書いたリード文の抜粋です。

長く魚を食してきた先人の知恵、神経〆(しんけいじめ)。木炭デッサンの芯抜きに似たもので骨髄内の神経を抜いてしまう「神経〆」は、生物の死には脳死、肉体的な死、神経死という段階があることを教えてくれる。それらの間にあるたったコンマ何秒かに封じ込められた、死ぬ前にみると言われる走馬灯のような莫大な映像塊。

なんとなく、僕が視る「走馬灯」はきわめてどうでも良いものになりそうな気がしてならない。好きな映画でもなく、好きな絵の少女と見つめあうわけでもなく、「うーん、今じゃなくてもいいだろうに、おいおい、これ、マジで最後なんですけど」みたいな場違いな走馬灯が走り去り、照れ隠しに下手くそに笑って死んで行くのだろうと予想を立てている。うん、なかなか良い感じの最後だと思う。

いつも、1日に2回か3回 「あれ?なんでこんな事思い出したんだっけ?」って事がある。僕はこの「白昼夢もしくは走馬灯のようなものの飛来」が人より少しだけ多い気がする。これは僕が14歳の1回をのぞいて夢を見ない・憶えていないことと関係していると予想している。せっかくなので捕まえてみようとするけれど「突然飛来する走馬灯」は脈絡なく飛んでくるので難しい。運良くメモできる環境に居る時でさえも、携帯なんかを手に取った瞬間に、物の表面をつたってどこかに吸収されてしまう。どうやら走馬灯ってやつは、物質に溶け出しやすい。

僕はもう十分に中年だけれども、具体的な自分の死に向き合うのはまだもう少し先と仮定して、擬似的な死に際かのように訪れる白昼の走馬灯をつかまえてみようとおもう。 もし、途中で視ている/聴いている/読んでいる意味を見失いそうになったら、これが人生最後の死に際に飛来してきたイメージだったらと想像し「いや、別にこれじゃなくてもねぇ」と心の中で口ずさんでくれれば雰囲気が出るんじゃないかなって思う。

マルセル・デュシャンという偉いアーティストの墓には「死ぬのはいつも他人ばかり」と銘うってある。
これは僕の、その銘文に対する尊敬と苛立ちを込めたささやかな返答でもある。
他ならぬ自分の死に際を祝福する練習として。




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