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snow contemporary
『制作中のドローイング』2025 ©Rintaro Fuse
布施琳太郎 個展「人工呼吸、あるいは自画像の自画像 」
会期:2025年6月20日(金) - 8月2日 13:00 - 19:00(土)
*日・月・火・祝日は休廊
会場:SNOW Contemporary / 東京都港区西麻布2-13-12 早野ビル404
オープニングレセプション:2025年6月20日(金)17:00 - 19:00


SNOW Contemporaryでは2025年6月20日(金)から8月2日(土)まで、布施琳太郎「人工呼吸、あるいは自画像の自画像」を開催いたします。

1994年生まれの布施琳太郎は、iPhone登場以降の急速に再構成される認知や慣習、新型コロナウィルスの感染拡大によるコミュニケーションのオンライン化などを踏まえつつ、現代社会における「生」のあり方を、自主企画の展覧会を中心とした作品制作やテクストの執筆などで表現してきました。美術史に限定されない濃密で斬新なリサーチとアイデアでつねに話題をさらい、幅広い世代からの注目と評価を集める2020年代を代表するアーティストです。

一人ずつしかアクセスできないオンライン展『隔離式濃厚接触室』(2020年)、廃印刷工場でのキュレーション展『惑星ザムザ』(2022年、小高製本工業跡地)、個展『新しい死体』(2022年、PARCO Museum Tokyo) 、グループ展『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』(2024年、国立西洋美術館)などで立て続けに発表を行なう一方で、2023年には詩集『涙のカタログ』と批評集『ラブレターの書き方』を同時刊行。そして本年初頭には、シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]の2024年度フェロー成果発表にて「架空の水族園構想」「プラネタリウムにおける観測報告」「新たな美術雑誌の刊行」からなる『パビリオン・ゼロ』(葛西臨海公園、コスモプラネタリウム渋谷など)を発表しました。

しかし今回「久しぶりに引きこもって制作した」と語る布施は、「自画像」をテーマとした100枚近いドローイングの制作によって、新たな身体論の創出に向き合いました。制作のなかで布施が参照したのは、人工知能の記号接地問題、当事者と非当事者の身体、解剖学者の語る「骨と筋肉」の関係、心肺蘇生訓練用の人形「レサシアン」、ロボット工学博士の「不気味の谷」、そしてゲームやアバターなどです。これらのリサーチによって変化していくセルフイメージの現在地を、自室で描き留めることで生み出されたドローイング群をデータベースとして、着想された新作パフォーマンスや平面作品も本展では発表されます。

こうした制作について布施は、自らの実感から「新たな身体論が要請されている。インターネットのなかを経済原理で拡散する情報群、それを錯乱することなく認識するには、言語ではなく身体を、世界把握の根拠にしなければならない」とまとめています。

これまで布施は、インターネットにアップロードされたセルフィー(自撮り)をスプレーで描く絵画シリーズ《Retina Painting》(2017~)、映像や平面、詩などの展示構成によって存在しない死体を表現する個展『新しい死体』など、独自の身体像を展開してきました。しかしそれらが「他人の身体」だったと語る布施は、領域横断的な問題系を結び合わせて自画像制作に向き合うことで、新たな身体論の完成に迫ります。

本展は、約100枚のドローイング、新作絵画、パフォーマンス、映像で構成される予定です。布施の新たな挑戦となる『人工呼吸、あるいは自画像の自画像』を、是非ご高覧ください。


*アーティスト・ステートメント
布施琳太郎

自画像の自画像についての問題集
新たな身体論が要請されている。インターネットのなかを経済原理で拡散する情報群、それを錯乱することなく認識するには、言語ではなく身体を、世界把握の根拠にしなければならない。そう考えて画材と鏡とパソコンを並べてドローイングに集中してみた。一連の制作は今年初頭にソーシャルメディアを通じて経験したコミュニケーションへの個人的な疑心暗鬼と憂鬱に由来している。

久しぶりに引きこもって制作した。絵を描いて、音楽を聴き、本を読んだ。

そんな時間を通じて自分と社会、身体と言語の距離をつくり直すことができたように思う。生来の「運動神経の悪さ」みたいなものと向き合えたと思う。それは自画像を西洋美術史から解放する試みでもあった。以下のノートは、ドローイングをしながら考えた問題群をまとめたものだ。

問題1:人工知能の記号接地と当事者/非当事者
当事者と非当事者における出来事(事件や事故、差別、災害など)の経験の有無についての議論は、人工知能における記号接地問題と相似形をなしている。「犬」という記号を人間自らの経験に照らすとき、たんなる記号から犬の匂い、動き、幼少期の記憶までを想起することができるのは、私たちの身体を通じて記号が世界に着地するからである。だからといって「身体を持たない人工知能には記号接地ができない」と述べても意味がないのであり、それは「当事者のいる問題について非当事者は語ったり介入したりするな」と主張するのと同じだ。だからこそ相反する立場、時空間に同時に存在できる身体のあり方が要請されている。

この因果関係を逆転させたい。つまり複数の立場、時空間を結び合わせるための装置として「身体」という錯綜体を捉えるために、身体の方を変質させてみたい。こうした関心において自画像をテーマとした制作がなされる。それは「私である」という点で「私ではない」ような自画像である。

問題2:Retina Painting
ソーシャルメディアで出会った名前のない人々との幸福な交流に基づいて、そこにある匿名性を絵画化するために、2017年ごろから私は《Retina Painting》シリーズを制作してきた。しかし本展は、ここにある匿名性を他者のものとしてではなく、今日における自画像の問題へとひっくり返す試みだ。

問題3:負の象徴構造
解剖学者の三木成夫は、生物の骨について「二次的に隙間を埋めるもの」といった意味で「負の象徴構造」と述べた。建築の骨組みとは異なり、まず筋肉があって骨が生じるのであって、その逆はなく、骨だけの生物を想定することはできない(死体以外には)。だが身体全体の運動は筋肉の伸縮と連動した骨の動きとして現れる。ここでも順番を逆転してみるとき、私たちの筋肉から、まったく別の骨格を思い描くこともできるかもしれない。

問題4:レサシアンの唇、人工呼吸
19世紀末、パリのセーヌ川に身元不明の少女の死体が流れ着いた。その匿名死体は展示され、さらにデスマスクが作成された。誰でもない死体としての彼女のマスクは愛好の対象となり、複製されてカフカやブランジョなどの文学者の家にも飾られたという。そして最終的に彼女は現在世界中に流通する心肺蘇生訓練用の人形「レサシアン」のモデルとなった。その少女の生前は、決して知ることができないという点で、私たちにとっては徹底的に空っぽである。だからこそ彼女はすべての人類が経験することになる死を先取りして象徴するのだ。学校で、病院で、自動車教習所で人々は彼女に口づけしてきた(あなたの唇も触れたことがあるかもしれない)。そこにある呼気は、僕だけのものでも彼女のものでもない。

問題5:アバターは誰か
レサシアンは「アバター」という概念の誕生と関係している。アバターとは、ゲームプレイや仮想空間でのコミュニケーションの際に用いられるユーザーの分身である。ボタンを押したりスティックを倒したりという操作が画面内に反映されてキャラクターが動くことで、事後的に、自らの内面が表出する場としてアバターは私たちに認識される。そんなキャラクターが「分身である」と感じられるのは、その存在の生前が空っぽだからだ。

今回の個展で僕が題材とするのは、レサシアンの唇を出入口として生前と死後を行き来するセルフイメージの世界である。心肺蘇生法の練習やアバターの操作において、私たちは「私であるかもしれない」と同時に「私以外のすべてでもあるかもしれない」身体を経験している。

問題6:不気味の谷
ロボット工学者の森政弘は1970年のエッセイで「不気味の谷」を提唱した。それは生きた人間のようだが生きてはいない存在との出会いである。彼は、あまりに精巧な義手と握手する体験などをサンプルとしながら、人間との類似度が高いにもかかわらずに親和感がマイナスになってしまう嫌悪感を説明している。脚本家の小中千昭は著書『恐怖の作法:ホラー映画の技術』のなかで、ロボット開発では解決すべき課題である不気味の谷が、黒沢清などの映画作品においては亡霊的な表現に役立てられていると指摘している。しかし本展の試みは、ホラー表現ではなく、異形の他者との共存のために不気味の谷を活用するものだ。

問題7:ドアとしての絵画
いないはずなのにいるのが亡霊であるのなら、僕の関心とは「いるはずなのにいない何か」に向けられている。壁面に飾られた絵画がそこにあるはずのない奥行きを生じさせることはイリュージョンなのだが、逆に窓があるのに、そこにぽっかりと白い無だけが表示されているとき、私たちは「それ」を何と呼べばいいのだろうか。あるいはそのように存在する(不在する、と言うべきかもしれない)人間の身体を想定することはできるだろうか。つまり窓ではなくドアとして絵画を捉えることで、その内外を行き来するための枠組みとすること。ここで私がつくりだそうとしている「自画像」とは、そのような空間にこそ存在する。

問題8:ドリームエミュレーター
1998年に発売されたPlaystation用ゲーム《LSD》はジャンル名として「ドリームエミュレーター」を冠していた。エミュレーターとは、特定のハードウェアの機能を仮想的に再現することで、異なる環境で実行できるようにする仕組みのことである。つまり特定の機械やソフトウェアの動作を真似して実行するシステムだ。

《LSD》は目的なく歩き回るだけのゲームである。本作では、実際の悪夢のなかで次々とシーンが切り替わっていくように、極彩色の床面の向こうに巨大な顔が現れたかと思えば、濃霧につつまれたフィールドにぽつんと放り出されたり、実写映像が挿入されたりする。これは夢を見ている人間(というハードウェア)を仮想的に再現する。他人に夢の話をされても退屈さを感じてしまう僕なのに、本作はとても面白くて中学生の頃にハマった。ドリームエミュレーターという言葉の通り、本作は「第三者にとっても面白い夢の話」を再生するものではなく、夢のなかにいる経験を再生するものなのだ。しかし夢こそが現実のエミュレーターであったことを忘れてはならない。本作において私たちは、二つの異なる世界を行き来する身体と出会うことになる。

問題8:自画像のためのプロンプト
1. 月明かりだけが差し込む寝室で、鏡にうつった顔を見るように
2. メガネを外して車を運転するときの緊張感(乱視)
3. 些細なことで恋人と喧嘩をしたあとの後悔みたいに、自分のしたことに後から驚く
4. スマートフォンの汚れを指で拭き取るような描写
5. ノイズキャンセリングイヤホンの無音
6. あついコーヒーのなかに溶け残った角砂糖の粒子
7. 自らの性器に触れる指先を他人として経験するように(オナニズム)

問題9:マジックミラー
それは表と裏のない鏡である。向き合う二人のあいだに置かれたガラス面が、人物Aには鏡に見えるのに、人物Bには透明なガラスに見える。空間を二つに分けるマジックミラーは、一方から見ると透明なのだが、もう一方から見ると鏡である。シンガーソングライターの大森靖子は2016年前後、iPhoneのメタファーとしてこの言葉を多用し、同名の楽曲もつくっている。いま僕が描いているのはマジックミラーの両側をシャトルランするようなドローイングである。



以上の領域横断的な問題群は、個別には論理的だが、組み合わせていくと意味が発散していく。そこで生じる発狂を、あらためて論理的なものとしてかたちにするために、僕は制作をする。新たな身体論とは、今までになかった仕方で「正気」を定義する試みなのだ。



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